2025年。今年はやる気をテーマにしたけれど、どうにもテーマに沿えない日々を送っている。そして2月も中旬。
パソコンに動画編集用のソフトを入れたのはいつだったか。ようやくそれを使って一応完成という方を作れた。これ
何となくの感覚で触って、何となくで進めて、何となく出来た。もっと知らなきゃいけないこともあるけれど。
とりあえず、やる気の種を一つ植えられた。意外と楽しいのでうまく育てられるかもしれない。
やる気か。動機が必要なんだろうか。動機……目的。確認……今の僕に出来るかどうかを確認することは重要。少なくとも僕には。他人からみると、意味が分からないと思われたりもするけれど。
人に認められるということを素直に享受出来ないのか、認められることがないのか。とりあえず、あの頃はつらいことも認めてもらえなかった。だからせめてと、自分の為にと努力をしたというのもあったか。今はもう、なにが努力がわからないけれど。
やる気と努力。続けることが努力なのか、頑張ることが努力なのか、両方なのか、ほかの何かか、全部なのか。それにやる気って何だろう。やらなきゃいけないことをやる気持ち? やろうとする気持ち? ……なんて考えても仕方がない。
言葉で表すのは大切で意味もある。行動で示すのも意味がある。人と付き合うにも大切なことだし、自分を支えるのにも大切。そう思う。ではあるけれど、自分を視るとただそうであるようにあるだけ。悟りの域に迷い込んだせいなのか。
僕としての視点では、望むことは色々ある。あるようにあるだけでは満足は出来ない。離人症という状態を治るではなく従えた、あるいは自分のカタチとして組み込んだ。今は治っていると思えるけれど、精神構造は……。僕は自分であるし、譲れない部分でもある。まともであるかの客観性も十分にある、人前ではとぼけることもあるけれど。客観性と別のものもある気もする。それをもっと研ぎ澄ませたようなのがあの時期の感覚。それを目指しているけれど遠くてどれくらい先かわからない。
それを目指すのも、やる気の種か。芽は出しているけれど、花が咲いて実を結ぶのはいつになることなのか。そうか、そういう考えで行くと枯らしてしまったのだな。でも、種は記憶として残っていたわけか。そして今の環境は優しすぎる。
優しい環境では育ち難いらしい。僕としては優しい環境で生きていたい。そんな環境で、やる気の種を楽しく育てたい。
楽しく気楽に……これはずっと前から変わらない。あるようにあるようにそうありたいかな。だからこその今の僕でもあるわけで。
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