悟りについて思うこと
今の時代の日本に本気で悟りの境地とやらに至りたいと思っている人間はどれだけいるのだろうか。それ系統の宗教を信奉している人は、その道を歩んでいるのか、それに至った者の教えとやらを守っているのか。
世界のルール、または法則。宗教というものを、世界の手本とみることも出来ると思う。が、各々のもつ世界と合う合わないの相性もあるはず。
何が正義で何が悪なのか、その基準はどこにあるのか。その判断は正しいのか間違いなのか。迷う時がある。その迷いを判断する高位の世界……そのルールに従うことで正義であり正しいと進む事が出来る……のかもしれない。生き方自体にも。……今回はこれに関して考えたいわけではないのだった。
悟り……恐らくその域に迷い込んだことがある。苦悩の日々から逃げるために頑張り、努力した先に迷い込んだ。
風が強い夜だった。寂しさやら苦悩で頭の中を埋め尽くつつ、風を感じながら自分の体がちゃんとあることを感じ取りたかった。ぬるい風だった。ふとした瞬間、視界のぼやけが晴れた。体の感覚のズレが合わさった。自分という確信は戻らなかったけれど、多くの辛さから解放されて笑いが込み上げてきた。
体にちゃんと力が入る。異常な集中力による観察力と洞察力のせいか周りの動きが空気の流れでみえる。人の動作から思考が読める。……けれど、心は読めなかったのだよな。経験値不足から足元をすくわれて、異常な集中力は失われてしまった。そのあとは緩やかに弱り、その数年後に弱っていたから自分という確信を見つけ出せたのかもしれない。その先も心身ともに弱っていって……多少は持ち直した今日この頃。ではあるけれど……。
恐らくの悟りの域に迷い込んだことで、色々と感じ取ることが出来なくなった。顕著なのが寂しさを感じないこと。おかげで人生におけるストレスの一つを大幅に楽なものにした。したのだけれど、感じ取れないのではなく、満たされたかった。……満たされても感じ取れないだけだったのか?? 何か見落としている気もする。
悟りに至りたい者にとっては、それでいいのかもしれないけれど、そうじゃないのに。この辺りも、なにかとわかり合えないわけか。
どの程度なのかよくわからないけれど、だんだんと寂しいを感じ取れるようになっていくことがこわい。意識出来るのとは違う。もっと恐い気がするのが、その寂しいと感じ取れるのは元に戻っているのではなくて再現しているだけなんじゃないかとも思えてしまうこと。
どうにも自分の内面を覗くと小難しいよくわからないことを考えたくなってしまう。
自分のふりをするに対して、今は自分を演じる。演じるとはいっても、そこにあってあるようにだし。気楽に楽しく楽して生きていたいなぁ。とりあえず基本的に自分に対しても、他人に対しても甘いのは良い。自分に対しては逃避という感じで容赦がないこともあるけれど。