心とはなんだろう
今の自分が持つ”心”というモノの捉え方の一つとして……。
魂という設計図から、記憶を材料につくられているモノが心という捉え方がある。
記憶はともかくとして、魂などというとオカルト染みている気もするけれど、要は物事をどう捉えるかのパターンのようなもの。
同じ経験をしても、それぞれどう捉えるかは違う。同じ経験からの記憶もそれぞれカタチが違う。その積み重ねが心をカタチづくっていく。
記憶は体にある。体を失ったとしたら心の材料としての記憶も無くなることになるので心も失われてしまう。……ここで考えを止めてしまうと、ただかなしいだけ。だからもっと考えないと。
魂……設計図。同じ人と関わるにつれて、その人の人となりが見えてくる。それはその人の魂という設計図の断片。人に限らず、付き合いが長くなればよりその魂の断片は見えてくるもの。
自分以外のモノの魂の断片を、記憶として保管。自分にとっては記憶だけれど、対象の心の設計図と、材料としての自分の記憶はある。擬似的に対象の心を……表現はいろいろあるけれど、再現出来る。
体を失っても、誰かが覚えてくれるなら……。というもの。
相手を思ったり、相手の気持ちになったり、というのと同じようなものなのだろう。設計図も時と共に書き足されたり消されたりする……永遠はなく、永遠は条件が成立する限り続く。
魂。設計図を失くした心は壊れた所をちゃんと直せるものだろうか。記憶をもとに設計図を書き直す。書き直された設計図という魂が機能してから、自分という確信を見つけ出したのが今の自分で、元の設計図は……一部として組み込まれて見分けがつかないだけなのだろうか。
魂を心の設計図として、オカルトを捉えたりも。探求というのはなかなかに……。