自分とはなんだろうかと今も考える。
自分である確信を失くした時、それでも自分というモノはあったといえるだろうか。記憶も確信が持てず、本当にあったことなのか妄想の産物なのかと随分と不安にさいなまれ続けた。それでもそれに頼って自分のふりをする。自分のふりをしていたモノはなんだろう。
自分のふり……人前での振る舞い、内にある考え方思い方、そういったモノのパターンの連続性。そういったモノが組み合わさって出来たカタチ。器、入れ物……を自分と呼ばれるモノなのだろうか。魂……か。
去年の終わり頃に、自分という確信を持っている今の自分が以前の自分とは違うのだと気付いた時、今の僕というのは空っぽな人間なのだなと思って、らしくない失望をしてしまった。それならこれからとも思ったが、随分と多くのものを失って時間が経ち過ぎてしまっている。身近と近くを避けてしまった結果、やり方がわからなくなってしまっている。……ではなくて勇気が足りないのだろう。
それなりにマシにはなってきたけれど、行動と思考に多くの枷がある。車の運転にしても出来ないわけがない。……のに、どうにも拒絶してしまう。車の免許を取った頃は体の感覚にずれがあって、そのずれを頭でイメージして修正してその上でハンドルやらを握ったりするわけで。今と体の感覚がちがう……のに、そのずれを修正する……が、どうにも含まれて考えてしまう。その結果、恐ろしく難しいことに思えてしまう。今はもう違うと分かっているはずなのに、どうにも。トラウマという類なのだろうけれど、克服したいが物を壊したり人の命にもかかわりそうで……こわい。
一番必要だった時に、精神面を誰かに救われることがなかった。自力でその状態を従えた。これが身近と近くを避ける原因なのだろうと思う。救われずに厳しくされることがこわい。……なのだろう。あまり自覚がないけれど、じっくり現状を顧みるとそう思える。
自力でその状態を従えるに至った。自分という確信を持っていなかったけれど、それは今の自分。そこから随分弱くなって自分という確信を見つけ出せたのだったか。更にそこからかなり弱くなって、運動やらで再びその自分を再現しようとしているのが今の僕というわけで。かなり持ち直したはずなのに質が違うのか微妙だ。
弱って崩れた残骸から再現する自分。中身が無いというよりまともな入れ物がなかった。という考え方でもいいのかもしれない。中身たるモノは一応は散らばってあったと……思いたい。
そもそもが、元の自分を再現しようとしていたのに、今は再現を再現しようとしていることになるのか。いや、行動と思考の枷を外しつつだから、元の自分の成長したであろうモノの再現ということにしよう。
自分という確信を見つけ出せたように、いつか元の自分だと思える日が来るだろうか。記憶はある。子供のころの記憶を思い出すと、亡くした友人を思い出すような感覚がうっすらと滲む。自分の記憶なのに。
深く深く深く考えるとこんな感じだろうか。
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