努力とはについての考えの一つ
運動を始めて3年以上になった。最初はほぼ毎日走るだけを半年、その後3か月くらいサボり、次の年にかつての運動の上半分を、その次の年にかつての運動と同等なだけ、今年はかつての運動の約半分以下を目標に。今は出来ると分かり切っているだけをやっているだけ。これを努力といえるだろうか。とりあえずは、努力しているとは感じない。
運動の目的は、精神面を今に通じる自分が最高だった状態に近づけること。筋力やら体力やらはおまけ。おまけも魅力的だけれど。現状は運動なしでも近づいている。……寂しさやらを感じ取れる状態でというのがこわい。
努力とは何だろうか。何をもって努力といえるのか。
あの頃の努力、やっていたことを再現しているここ数年。他人ではなく、本人という今に通じる自分としてみて、努力を感じないし頑張っているとも思えない。出来ると分かっていることを只やっているだけ。
人から見れば努力しているでも、本人はその自覚がないというのは珍しくないと思う。誤解……こんな所にもわかり合えないがあったか。
とりあえず努力は置いておいて、何かをするには、やる気というのか気力という類のものが必要。それに必要な力の量は、状況状態その人次第で違ってくる。その何かをするのに必要な力の量が努力と捉えるのもいいかも知れない。……とりあえず置いたのに努力をすぐに取ってしまった。
苦手なことやら、そうそう出来ないことをするにはそれ相応の量の力が必要。その量が努力。困難であるほどに必要量は多いので努力したと感じるのかもしれない。当たり前だったり、出来ると分かっていることには努力を……努力の量を感じない。という感じだろうか。自分の持っている物差しで人を見た時、努力しているかのギャップが生まれる。……のかなぁ。複数の視点から見るのは大切だと思う今日この頃。
同じことでも慣れてくれば少ない力で出来たりもする。努力も感じにくい。けれど続けることで努力が積み重なって……。望んだ結果にならずとも、魂という設計図に書き加えられているので心のカタチも変わる。善し悪しは別として。
自分の過去の物差しで今の努力を測るなら努力していない。ただ走る運動だけでも、気力だけじゃ足りない。絶望失望恐怖虚しさ、言葉にならない苦痛やら苦悩やら……。それに対して永遠にこのままでいたくないと、立ち向かうではなく逃げるために。これで死んだならちゃんと頑張ったと自分として認められるかもしれないと、殺すつもりでした努力。死ぬ気で努力するとか、死ぬ気で頑張るなんて温い。冷たい努力……という頭の悪い対自分専用の努力測定物差しが刺さってる。
体の耐久値を簡単に超えることをすれば死ぬけれど、それではただの生きる事への諦めだ。それが悪いとは言いきれないけれど、それなり以上の努力やら頑張りで魂という設計図を現状に対応出来るように刻み書き加えれば、あるいは削り取れば、いい答えやら考えやらが見つかって、みえていなかったものがみえて心も楽に出来るかもしれない。諦めなくても、いずれ死ぬのならその時まで。
努力も諸々自分に対して感じ取れなくなったものの1つだろうか。寂しいとかを感じ取れないのは楽だったけれど、認識はあるわけで、緩やかに弱るわけで。でも苦痛に感じないので人付き合いをサボれるわけで……ちゃんと繋いでおかないからいつもどこかへ行ってしまう。時間の感覚も……自分として送れていなかったり永遠だったりと。なんともダメなわけで、だめ人間なわけで。