2024年の初め頃に、問題に気づいてしまった。なかなか重要な問題なので答えが欲しくなってしまう。その問題には2011年の気づくべきだったけれど、どうしても取り戻したかった失くしたものを見つけたことで、安心してそういうものかと誤解してしまった。
失くしていたものは自分であるという”確信”
それを自然と持っていた自分、それを失くして自分のふりをしていた自分、今の自然とそれを持っている自分。気づいた問題はそれを失くす前と取り戻した自分が同じじゃないこと。失くすことがなければ単に成長ととれるのかもしれないけれど、大きな溝がある。
記憶やら思い出の類はそのまま自分のものと認識出来ている。単に自分として生きられなかった時間を認めたくないのだろうか。
いや、逆だ。そうか。自分のふりをしていた自分が、自分という”確信”を持ったのが今の自分という認識にここ数か月で至っていたけれど。
自分のふりをするためにした努力や頑張り、その結果の自分の再現。この再現した自分を認めていたいからだ。あれ? 自分を否定しようとしているのか? よくわからなくなってきた。
自分を否定しようとしていたとしても、自分であるという”確信”があるので特に問題はないけれど。今はふりではなく、演じる……だ。”確信”があり、いくつかの感情も認識するじゃなく感じ取れる。より自然な自分だ……感じ取れるって辛いことも。再現のなかで感じ取れなくしたのは必然だったか。
文章にすると違う視点で見て気づいたりもするなぁ。